玄米と報道。
『玄米、いいのか、悪いのか。』戦国時代編、いかがでしたか。
『清正記』『続撰清正記』がどのようなものか、知ってみると、
(黒飯、黒米の実態はべつにしても)
「清正は玄米を常食していた」説が、いかに根拠に欠けたものであるか、見えてきますね。
今回私が提示した資料は、どれも一般人がアクセスできるものだったというのに、
「清正は玄米を常食していた」説が、ここまで一般的になってしまったわけ。
それは、「この一文はこういう意味だ、と広めたい」発信者がいて、
その情報に発信者の見解が入り込んでいたにもかかわらず、
それを「資料にそうあるなら間違いなかろう」と、簡単に信じてしまった受け手がいたからです。
これと同じことは、常に私たちの身の回りで起きています。
ネットの世界だけではありません。
テレビや新聞でも同じことです。
新聞やニュースのヘッドラインには、毎日のように、著名人の発言から切り取られた文言が踊りますね。
・・・それらはしっかりした報道メディアなんだから、フラットな情報が手に入るはずだ?
そうでしょうか。
それならばなぜ、局によって、一人の政治家がまるで別人のように違って見えるのでしょうか。
・・・待って、NHKはフラットでしょ、って?
いいえ、NHKがNHKであろうとする過程において、情報の取捨選択はおこるはずです。
誰もが、できるだけフラットな情報に触れたいと思っている。
けれど、情報をあつめ、編集し、発信する主体がいる以上、この世にフラットな報道などないのです。
しかも、発信者が情報を扱うプロならなおさらです。
誰が、どんな意図をもって、事実を切り取ったか。
それは、場合によっては、その情報自体と同じくらい、重要なことです。
・・・そんなこと、いちいちチェックしていられない、って?
同感です。忙しいママさんに、そんな時間はありませんよね。
大切なのは、「そもそも報道とはそういうものだ」という前提でものを見ることではないでしょうか。
「へえ、〇〇さんがこんなこと言ったのか。ひどいなあ、軽蔑ものだ!」
(だけど、どういう状況で誰に言ったのか、書いてないなあ?)
「ほー、〇〇っていう条例にはそんな一文があるのかー、女性の事を考えているなあ」
(だけど、いつ作られたもので、全文はどんな感じなんだろう?)
それを、知らないな、と気づくこと。
このワンクッションが、情報過多の現在で、主体性を保つには大切だと、私は感じます。
それでは、次回、通史編まで、しばらくお待ちください。