セミはかわいそうな昆虫なのか問題、について。(アレルギー全然関係なし)

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2021年7月8日 木曜日

セミはかわいそうな昆虫なのか問題、について。(アレルギー全然関係なし)

こんにちは。
子供たちのアレルギーが食事で治りました!
いまも三人育児に奮闘中の佐々木愛です。

 
FBで流れてきた、ある起業系セミナーの講師が、
「人生引きこもってませんか?、
セミじゃないんだから、もったいない、今すぐ外に出て仲間と繋がろう」
みたいなことを言っていた。
 
わたしはこの表現にものすごい拒否感を覚え、その拒否感の強さに自分でもびっくりしたので、今日はこの拒否感が何か考えてみようと思う。
暇な方だけお付き合いくださいヽ(^o^)丿
 
そもそも、セミっていうのは、「かわいそうな昆虫」ととらえられがちである。
 

 
なんでかっていうと、
「7年とかの長い期間を暗い地中ですごし、やっと外に出られたら二週間しか生きられない」から。「たった二週間のために長くつらい孤独に耐える昆虫」っていう立ち位置なのだ。
 
でも私はこの見方にそもそも同意できていない。
それどころか私は、思えば子供の時から、セミの幼虫の地中ライフがそこはかとなーくうらやましかった。
 
だって地中は、基本、安全。
そしてきっと静か。
暗くて、落ち着く。
 
これが人間だったら、働けとか、運動しろとか言われるだろうけど、
セミの幼虫はその生活こそが理想形なのだから、堂々と甘んじていていいのだ。
 

 
それに、セミの幼虫は完全な孤独にいるのではない。
木の根っこのそばにいて、絶えず樹液をチューチュー吸っているのである。
 
きっと(ここは私の妄想だけど)、
その樹液も、毎日同じ味ではなくて、
天気とか湿度とか季節とかで微妙に変わっていくのを、セミの幼虫はしみじみ楽しんでいるのではなかろうか。
 
土の感じだって、日々、変わっていくだろうし、
近くを通るミミズとか、虫たちの足音に耳を澄ましたり、
ときには、モグラなんかの気配にギュッと身を縮めたりもするだろう。
 
セミの幼虫は孤独に耐えているわけではない。
それなりのドラマの中でそれなりにあれこれ感じ、味わっているんじゃないかと思うのだ。
 
でも、そこはかとなく続くと思われたそんな日々の果てに、ふと、セミの幼虫は気づく。
 
あれっ・・・なんか苦しい。なんか・・・ここじゃいけない気がするぞ。
 
行かなくちゃ・・・
上に上がらなくちゃ・・・

 
え~~~、まじか・・・
 
・・・めんどくさっ・・・!(←私の妄想)
 
ここからは皆さんのよく知る光景が始まるのである。
 

 
そう、私にとっては、セミの成虫の活動は、
「七年もあの静かな生活をさせていただいたんだから、最後に世代をつなげないとなー」
っていう、お礼奉公みたいなものとして映るのだ。
 
そしてセミはやっと、他者とつながる。
自分が地中ではぐくんだものを異性と与え合って、次世代を残す。
 
わたしはそんな彼らを(半分妄想だけど)、いいなあ、素敵な一生だなあ、と思うのだ。
 
 
まあつまり、なにが言いたいかっていうと、
わたしは、孤独でいる期間の価値を否定するような風潮だとか、
とにかく、つながり!気づき!発信! を煽る風潮がやはり好きになれないのだ。
 

 
だって、まだ己の中で何も育んでいない人間同士がつながったって、何も起きないと思うから。
たとえ、メロンの網目みたいに隙間なくつながったとしても。
 
それに、自分がしっかりない人間に、真の気付きは訪れないと思うし、
また、絶えず昨日の自分と向き合っている人は、外に出て風に吹かれても、オムレツが焦げ付いても、子どもがウンチを漏らしても、絶えず何かに気づけるから。
 
 
既に発信しているお前が言うな、と言われそうだけれど、
わたしはいちおう、自分を小さいけれどセミの成虫だと思っている。
 
まだまだ小さいし、鳴くのもうまくないけど、
成虫になってからも、十分な時間と、伸びしろがたくさん残されているのが、人間という立場に生まれてよかったなと思うところだ。
 
そして実はわたしには、もっともっと小さな、無様なか弱い幼虫だったころに、
自分がもう成虫なんだ、特別なセミなんだというあさましい夢を見ていた時期があって、
上へ上へ登ろうとしたけれど、そんな体力はまだなかったし、
当時は今のように、簡単に「地上」へ行ける梯子(SNSなどの発信ツール)はかかっていなかった。
 
だから私はラッキーだった。
ちゃんと孤独の中で、必要なだけの情報を栄養にして、自分と向き合えたから。
そう、まだ、孤独と付き合いながら大人になっていける時代だったんだと思う。
 
 
私の子供たちはどうだろう、と考える。
どのようにいまの世界と向き合わせていけばいいのだろうか。
 
このさじ加減はきっとこれから、とても難しい。
 
外には、まだ地上に出るべきではなかった小さな幼虫がたくさんうろうろしている。
彼らの呼び声に、私の子供たちもきっとあらがえないだろう。
 
けれどそれはあやうい綱渡り。
地上でもうまく成長できればいいけれど、下手をすると命を落とす。
 
それなら家庭というものは、彼ら小さな幼虫がいつでも逃げ込める地中の穴のように、あるべきなのかもしれない、
そんなことを思う、今日この頃なのであった。
 




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