給食が油油油!!!肉肉肉!!!(゜o゜)
こんにちは。
子供たちのアレルギーが食事で治りました!
いまも三人育児に奮闘中の佐々木愛です。
あーもう、言わずにはいられない!
息子の学校(東京都北区の公立小学校)給食が、油油油! 肉肉肉!すぎるんですよ!
アレルギー体質の子供に、いや、そうではない子供でも、これは多すぎるって!
えっ、アナタのお子さんとこもそうですか?
ほんと、困りますよね・・・。
■油油油
息子が食べている給食の献立表を、ランダムに三日間連続して書きぬくとこんな感じです、
ごはん、きんぴらコロッケ、野菜炒め、味噌汁
まずきんぴらって、炒めて作るでしょ。
それをさらに揚げ油で揚げて、きんぴらコロッケを作るわけですね。
それ、ただのきんぴらでよくない? 揚げる必要なくない?
だって、野菜炒めも油いためだよ?
しかも豚肉もしっかり入っていて、ふつうこれがメイン扱いだよね?
そのお隣はただのきんぴらでよくない?
手作りコーンパン、ポークビーンズ、ヒジキのマリネ
コーンパンの原料には、油が入ってる。
ポークビーンズも、まず玉葱とかを油で炒めて作るはず。
だったら、ヒジキは煮つけでよくない? なんでマリネ(油漬け)にしちゃう?
全部の料理に油が入ってるってことになっちゃうよね?
ヒジキは煮つけでよくない?
酸辣湯麺、青のりポテト、くだもの
ラーメンはそれだけで十分オイリー。
なので、付け合せはあっさりとしたものが合うはず。
だから、この「青のりポテト」は、青のりがまぶされた粉ふきいもだったらいいなと思ったけど、息子に聞いたら「フライドポテトみたいなやつだった」とのこと。
この日の材料の「熱や力になる」グループを見ると、「ごま油、ラー油、油」とある。
ごま油とラー油は酸辣湯麺に入っていて、たぶんサラダ油でポテトを揚げている・・・。
頼むから揚げないで! 蒸すとかで十分です! 煮っ転がしでもいいです!
おいしくなるのはわかるけど、揚げないでください!
ちなみに、息子(小学二年生)の一回の給食に入っている油の量の上限は、大さじ一杯半ぐらい。
(文部省の規定によります。くわしくは過去記事「給食の献立と油。」)
無作為に選んだこの三日間の献立だけでも、この上限を超えていると感じる。
■肉肉肉
そしてもう一つ気になるのが、ほぼ毎日、畜産物のコラボなこと。
たとえば、前述のコーンパンの日は、
手作りコーンパン、ポークビーンズ、ヒジキのマリネ
材料のところを見ると、「牛乳、卵、豚肉、粉チーズ」とある。
(卵はおそらくコーンパンのトッピング)
記載によると、「タンパク質量」は、文部省の推奨の量に収まっている。
それはよいことではあるんだけど、アレルギー予防の観点から見ると、だから大丈夫ということにはならない。
少なくとも、息子の喘息を主に食餌療法でなおした私は、四種類もの畜産物を一気に食卓にあげることはない。
(我が家では一度の食事で畜産物は一種類、多くても二種類)
しかもそれを大量の油とともにとるとなると、消化の負担になるのは間違いない。
他の日も、こんな感じが多い。↓ ↓ ↓
(写真は借り物。パンの原材料を含めると、この献立の中に5点以上の畜産物)
そしてもう一つは、魚がほとんど出ないこと。
同じの月の献立を見てみると、魚がオカズとしてメインを張っているのは、なんと、一日だけ!
しかもその日も、わき役として肉と卵が幅を利かせている!
もちろん、たんぱく質の量としては足りているかもしれない。
だけど、それだけでは実現されない栄養事情があるんです。
栄養たっぷりな献立も、限度を超えると、消化器官をいじめはじめてしまう。
油と畜産物にこれだけ陣取られた献立が、子供たちの身体を炎症体質に傾け、アレルギーの増加、悪化に一役買ってしまっていることは、間違いないと思われます。
(アレルギーの原因について知りたい方はこちら)
■言うべきか、言わざるべきか
・・・と、みなさんに愚痴っていても始まらないわけで。
意見すべきかなと、思い始めた今日この頃。
ただ、息子はこの給食を食べていて、喘息がぶり返したというわけじゃない。
息子はアレルギーについての知識はあるので、少しは自衛しているようだし、
ヘンなウンチが出るたびに、「あ、給食の〇〇だ」と振り返っている程度だもん、
急を要するわけじゃない。
それに、こういうのって、意見を同じくする複数の人間で行くべきじゃないかな。
意見書みたいの持って・・・。
だけど、他の親御さんがどう感じているか、小学校って横のつながり薄いからわからないし・・・。
・・・なーんていうのは、
コミュニケーションスキルの講師である主人に言わせると、「すべて言い訳」なのです。
そしてそんなものが必要になるのは、「動くからには、変えなくては」と、私たちが意気込みすぎるかららしいのです。
主人曰く、
こういうときのお約束は、
自分の欲求を通そうとしないこと。
そこにアイデンティティを賭けないこと。
通らない=失敗だ、敗北だと思わないこと。
相手に意見を伝える、っていうのはとても大切なことです。
欲求が受け入れられなくても、伝えることは意味があります。
その結果、事態は変わらなくても、伝わった、という変化はそこにあるからです。
それがのちのち、何らかの変化をもたらす一歩になるかもしれません。
1人でも、それはできます。
そして、そうすることで失うものは、とくにありません。
ってことで、
次に先生にお会いする機会に、お話ししてみようかなーと思います。
取りあえず、そういうことはどなたに言えばいいのか、聞かなくちゃ(笑)