「愛情たっぷり手作り料理」に物申す!。その2
さて、大正時代まで、他の家事と同様、単なるルーティンワークの一つであった、食事づくり。
これが、一本釣り状態で「愛情」と結び付けられ始めたのは、昭和初期なのですが・・・。
●くわしくはその1をどうぞ
■大正時代は改革期
「じゃあちょっとさかのぼって、大正時代のことからね。
まず覚えておいてほしいのは、この時代は女性の社会進出の時代だったってこと。」
「ああ、なんかわかる!
ほら、あのマンガ・・・『ハイカラさんが通る』の世界でしょ!」
「キャ~! 同世代!
(↑名作! 未読な方は是非。知らないうちに大正~昭和初期のお勉強も!)
そうそう、紅緒(べにお)も環(たまき)も女学校に通ってたじゃん」
「うんうん。袴つけてね。
靴は黒い革靴で、可愛かったな~」
「うん、まさにあの時代。
日本がだんだん豊かになって、中産階級が増えてった時代、それが大正時代。
そして、世界的な時代の波を受けて、それまでの男尊女卑的な風潮がゆらぎはじめたの。
それで、女学校が増えたし、社会進出する女性も現れた!
『職業婦人』ってやつね。」
「うんうん、わかる。
紅緒も環も、女学校出て、たしか雑誌記者になったよね?」
「そうそう。
男女平等とまではいかないけど、同権を目指し始めたんだよね。
女性の選挙権を求める運動がおこったりもした。
いわゆる、フェミニズムってやつね」
「フェミニズム! 平塚らいちょう! 日本史でやった~」
■「料理」の改革。
「で、文化的にもいろいろな改革があったんだけど、
その一つが、栄養学の導入。
日本人もこれからはもっと体格を大きくして強くならなきゃってことで、
当時最先端だった、ドイツの栄養学が導入されたの」
「あー、肉食べなさいってやつ?」
「そうそう、肉とか油とかもっととりなさいって。
で、そういう料理が、女学校で教えられたわけ。」
「え~、男女平等とか目指してても、女学校って結局、家事を教えてたの?」
「いやあ、時代はそんなに一足飛びには変わらないよ。
良妻賢母教育っていうのが、当時の女子教育の基盤だからね。
もちろん、家事以外の科目もあったけど。
(↑写真は借り物です。大正10年ぐらいの写真みたいです)
とはいえ、やっぱりそれは改革だったんだよ。
だって、それまでは、ただ、あるものを食べていただけの食卓だった。
そこへ、栄養学っていう新しい視点が持ち込まれたんだもん。」
「そうか。昔の料理は作業だったんだもんね」
「うん。
それに当時は、『料理を習ってくる』っていうこと自体が、とにかくハイカラだった。
それまで料理って、家庭の中で脈々と受け継がれてきたものでしょ。
いってみれば、『タテ』に伝わるものだった。
(同志社女学校家政科割烹教室。
大正4年に作られた家政館には、当時日本には2台しかなかったオーブンが備えられたそうです)
それが、先生から一斉に習うようになった。つまり『ヨコ』方向よね。
これは、旧来の伝わり方にとっては、カウンターパンチみたいな衝撃だったのよ。」
「なるほどなるほど~。
台所におおきな変化の波が起こったわけだね。
つまり、お姑さんが女学校出の、西洋料理を作る嫁を、ねたんでいびったりしたわけだね!」
■キッチンにも階級があった。
「いやいや、それはどうかなあ。
っていうのは、女学校に行くような女性は、一部の上流階級のお嬢様たちだったから。
おうちにはお女中がいるから、自分では家事なんかしないんだよ。
お女中さんに、『こんなのならったからよろしく』って頼むんじゃない?」
(そのころの、ちょっと近代化した、上流階級のキッチン。
開成館編輯所「大正家事教科書」開成館1917」
「ああ、そうか。
おばあちゃんの会話で『あの人は女学校出だから』みたいな言い方あるもんね!
あの袴姿に庶民は憧れてたんだよね」
「そうそう、大多数の女子はまだ働きづめだったからね。
共同の井戸端で洗濯して、土間で作業して、かまどとか七輪で煮炊きして」
「そうか~。
ほんと、一足飛びには変わらないんだねえ」
「うん、そうだね。
・・・ただ、この時代には、ちょっと特別な事情があるんだ。
じつは、大正末期に起こったあるできごとがきっかけで、東京の街は一変するの。
古い建物が取り壊され、道路が整備されたり、集合住宅ができたり、
電気や水道などの生活インフラが短期間で整っていくの。
そして、東京の中流家庭に『キッチン』があらわれる!
(昭和6『主婦之友』12月号「中流家庭向きの模範的なお台所」)
電気がついて、蛇口ひねれば水が出て、コンロも使える最新式のキッチンがー!」
「・・・え、何々! 東京に何があったの?」
●それはまた次回!